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みなとみらいの帆船日本丸は、なぜ横浜に誘致されたのか!?

みなとみらいの帆船日本丸は、なぜ横浜に誘致されたのか!?

ココがキニナル!

日本丸は40年ほど前に神戸と誘致合戦をした覚えがあります。当時学校で署名し、横浜に決まった時は自分が呼んだかのように嬉しかったです。誘致決定までの経緯など調査願います。(よこはまたろうさん)

はまれぽ調査結果!

神戸ばかりか10都市による誘致合戦を制した横浜市。そこには「生きたままの船」という画期的な保存・活用計画のレベルの高さとともに、今では夢のような市民と一体になった誘致運動の盛り上がりが関係していた。

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ライター:結城靖博




帆船日本丸の誘致は、みなとみらい地区開発の第一歩だった





最近、同地区を歩いていると、頭上に銀色の物体が行き来している。


4月から運行を開始した汽車道沿いの「YOKOHAMA AIR CABIN」


かと思えば、赤レンガ倉庫の近くでは、巨大なクレーンが鎌首をもたげている。


赤レンガ倉庫側から南西の運河方向を望んだ光景


こうして今なお、日々変容し続ける場所、それが横浜みなとみらい21地区だ。

その原点にあるのは、1989(平成元)年の「横浜博覧会」だろう。1980年代後半にブームとなった地方博の代表例としてにぎわいを見せたこの博覧会があたかも号令のように、その後この地域の開発が進展していく。


よこはまコスモワールドは、同博覧会の「遺産」でもある


だが、桜木町方面からみなとみらい地区へ向かうとき、この遊園地を前に出迎えてくれるのが、帆船日本丸(はんせんにっぽんまる)の雄姿だ。


コロナ禍の今年は帆を広げる機会がないが、白亜の船体は美しく輝いている


日本丸がこの地に身を落ち着けたのは、横浜博よりも前の1985(昭和60)年のこと。つまり、みなとみらいの変遷の過程を、初期からずっと見つめ続けてきたわけだ。

見方を変えれば、横浜博に先んじた日本丸の誘致こそ、みなとみらい地区開発の歴史の第一歩だったともいえる。

帆船日本丸の所在地


36年前の様子を紐解けば、その言葉が決して大げさではないことがわかる。キニナル投稿者の「よこはまたろう」さんばかりでなく、日本丸誘致は当時「ハマっ子の一大事」だったのだ。

でも、一隻の船の誘致が、なぜそんなに大きなことだったのか?それはなにより、「日本丸がすごい船だったから」だろう。というわけで、初めにそのすごさを、ざっと見ておこう。



90年以上の歴史を持つ帆船日本丸の軌跡





近代は無論すでに汽船の時代だ。だが航海実習には帆船が重用された。それは、自然力と人力を最大限必要とする帆船が、運航技術の基本を体得するうえで相応しかったからだ。

ところが明治・大正期のほとんどの公立商船学校には小型帆船しかなく、海難事故も多発。大型練習船の建造が待望されていた。そうした中、1930(昭和5)年に神戸の川崎造船所でついに2隻の大型帆船が誕生する。そのうちのひとつが「日本丸」だった(もう1隻の「海王丸(かいおうまる)」は現在、富山県射水市の富山新港で保存されている)。


神戸・川崎造船所で進水する日本丸(写真提供:帆船日本丸記念財団)


日本丸は同年10月の東カロリン諸島ポナペ島への遠洋航海を皮切りに、東京・横浜を起点として主に太平洋で航海訓練を行い、大勢の実習生を育てることになる。

しかし、太平洋戦争が始まると外洋訓練は中止される。帆装が撤去され、船体は鼠色に塗り替えられ、航海訓練を兼ねつつも瀬戸内海などで石炭等の緊急物資輸送に従事する。

そして戦時中多くの船が沈む中、からくも戦禍をまぬがれた日本丸は、終戦直後、引揚者の輸送や遺骨収集の任にも当たった。

だがその後、ようやく戦後の海運復興が始まると、航海訓練所の各方面への働きかけが実り、練習帆船の現代的な意義が見直される。そして1952(昭和27)年6月、撤去されていた帆装も復帰し、日本丸は元の美しい姿によみがえる。


1952年、帆装復帰当時の日本丸(写真提供:帆船日本丸記念財団)


翌1953(昭和28)年、ハワイ島ヒロを目指して日本丸の12年ぶりの遠洋航海が実現した。

その後は、アメリカ沿岸やハワイ、オーストラリア等さまざまな港へ向かって数多くの航海訓練が実施され、船員教育が再び活発化していく。


太平洋航海中の現役時代の日本丸(写真提供:帆船日本丸記念財団)


1960(昭和35)年の「日米修好通商百年記念航海」ではワシントンまで航海し、日本丸の実習生たちが日米親善大使の役目を果たした。


東映衣装部から借りた武士の姿でワシントン市内の仮装行列に参加する実習生たち(写真提供:帆船日本丸記念財団)


とはいえ、そんな日本丸も、老朽化にあらがうことはできなかった。

1984(昭和59)年、日本丸はついに54年間の活躍に終止符を打つ。その間の航海距離は延べ183万km(実に地球45.5周分)、育成した実習生は11,500名にのぼる。

下の写真は、その間、ずっと稼働し続けた国産初の船舶用大型ディーゼルエンジンだ。


このエンジンは稼働年数世界一の記録を樹立した(写真提供:帆船日本丸記念財団)




横浜誘致の理由(ワケ)を知るべく横浜みなと博物館へ




みなとみらい21地区の玄関口に悠然と浮かぶ日本丸が、ただものでないことはわかった。

とはいえこの船の生まれは神戸、そして現役時代の船籍は東京にあった。なのになぜ横浜の地に永遠(とわ)の係留を定めたのか?
その理由を、帆船日本丸記念財団に直接訊いてみることにした。


訪ねた先は帆船日本丸の向かいにある「横浜みなと博物館」


取材に応じてくださったのは、横浜みなと博物館学芸員の三木綾(みき・あや)さんと同財団営業企画課係長の久保井雅子(くぼい・まさこ)さん。

貴重な資料もご用意いただき、当時の経緯を詳しく伺うことができた。


三木さん(左)と久保井さん(右)


それによると、そもそもの誘致運動は1969(昭和44)年に始まる。その頃すでに老朽化が進んでいた日本丸・海王丸の代船建造が運輸省航海訓練所で計画される。これに対して、海事思想普及の目的で誘致をいち早く希望したのが横浜市だった。

諸事情でいったんは白紙となった代船建造計画だったが、1978(昭和53)年に計画が再開されると、誘致運動も再燃する。だが、このとき誘致に動いたのは横浜だけではなかった。

実に全国で10都市(横浜、神戸、大阪、小樽、船橋、新湊、清水、豊橋、福岡、鹿児島)が名乗りを上げた。まさに「誘致合戦」である。


今では何事もなかったかのように平然と佇んでいる日本丸だが・・・


のちに東京も参戦し、やがて誘致先は横浜・神戸・東京の3都市に絞られる。

お台場への誘致を提案した東京もさることながら、「神戸の誘致活動も大変熱心なものでした」と学芸員の三木さんは言う。なにしろ神戸は日本丸誕生の地だ。係留先は神戸観光の一等地に建設中だったメリケンパークが予定されていたという。

そんな中、なぜ最終的に横浜が熾烈な合戦を制したのだろう?そこには大きく2つの理由があったようだ。


さくら通りの木陰で「日本丸のある風景」を写生する人々(2021年6月)



理由その1 ―優れた保存・活用計画―




日本丸が係留されている場所は旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)内だ。ここは、1898(明治31)年に竣工した船の修繕用ドライドックで、国の重要文化財に指定されている歴史的建造物だ。


(写真提供:帆船日本丸記念財団)


ここに注水し船体を浮かべ(湿ドック方式)、可能な限り現役時の姿を保持して船舶資格を残すという原型保存計画が、高く評価された。つまり日本丸は、今でも「生きた船」なのだ。

また、船内を一般公開し、海洋教室や市民ボランティアによる総帆展帆(そうはんてんぱん)を実施するなど、誘致後の活用計画も優れたものだった。


海洋教室で甲板みがきに参加する子どもたち(写真提供:帆船日本丸記念財団)



総帆展帆作業(写真提供:帆船日本丸記念財団)


ちなみに「総帆展帆」とは、文字通りすべての帆(セイル)を広げること。帆船の展帆は自動化されていると思いきや、実はすべて手作業だ。特別な訓練を受けた市民ボランティア(現在の登録者数は2,000名あまり)の協力で、今なお続けられている。


横浜みなと博物館に隣接する「訓練センター」


こうした保存・活用計画が他の誘致希望地と比べて抜きんでていたこと、それが誘致決定の大きな要因のひとつだった。



理由その2 ―産官民一体となった誘致活動のパワー―




だが、理由はそれだけではない。そこに、今回のキニナル投稿者「よこはまたろう」さんの記憶がリンクする。

前述した1978年の代船建造計画の復活に対して、まず動いたのは、全日本船舶職員協会横浜支部などの海事団体だった。複数の団体によって同年「帆船日本丸を知る会」が結成される。

この横浜の動向を察知した他都市も前述した通り次々誘致活動に動きだすが、そうした中、横浜では1980(昭和55)年5月に「帆船日本丸誘致保存促進会」が設立される。

この組織が特徴的だったのは、他都市が行政主導だったのに対して、県や市の行政サイドに加えて商工会議所を含めた25団体が結集した点だ。


大さん橋での誘致運動(写真提供:帆船日本丸記念財団)


さらに促進会は、誘致活動を市民レベルに引き上げる。1982(昭和57)年6月2日、開港記念日のこの日から、目標30万人の署名運動を開始するのだ。

これこそ、「よこはまたろう」さんが体験した小学校での署名だった。


当時各方面に配布された署名活動の資料(資料提供:帆船日本丸記念財団)


写真右上が、署名活動を呼びかけるチラシ、左上が依頼文書、下が署名簿だ。「よこはまたろう」さんは、まさにこの署名簿にご自分のお名前を記したのだろう。

促進会は街頭や区役所に署名のためのコーナーを設け、町内会や小・中学校に協力を要請。その結果、署名数はなんと最終的に目標をはるかに超え83万人超に達した。


これは当時集められた署名簿のほんの一部(写真提供:帆船日本丸記念財団)


また、市民は署名に応じるだけではなく、自ら能動的に誘致活動を始める。下の写真からその様子の一端が窺えるだろう。


開港記念日のパレードに参加する「横浜市民と港を結びつける会」(写真提供:帆船日本丸記念財団)


こうした、行政・財界・市民一体となった活動が功を奏し、ついに翌1983年8月に、日本丸の横浜への誘致が運輸大臣によって発表される。

「みんなの力が結集して誘致が実現した」と三木さんは語る。

そして、横浜市誘致が実現した日本丸は、1985(昭和60)年4月28日に一般公開される。その初日、なんと日本丸に乗船した人々は23,000人にのぼった。


公開初日、桜木駅から日本丸まで長蛇の列ができた(写真提供:帆船日本丸記念財団)


さらに公開1年目の入場者数は、38万人以上だったという。



国指定重要文化財となった日本丸





近年ではなかなか見られない「一丸となった運動」によって誘致が実現した日本丸は、当初の活用計画通り、その後もボランティアなど多くの市民の協力を得ながら今日に至る。

また、1万人以上の実習生を育ててきた同船は、船員たちにとっての「マザー・シップ」でもある。
そんな、市民と船員に愛されつつ横浜の街を静かに見守り続ける日本丸も、すでに建造されてから90年を超えた。人間で言えば卒寿を過ぎた年齢だ。

「戦争でこのクラスの船はほとんど姿を消してしまいました。激動の時代を乗り越えて今なお『生きた船』として存在し続けている日本丸の歴史的価値は、とても大きいと思います」と三木さんは言う。

その価値が評価されて、2017(平成29)年に日本丸は国の重要文化財に指定された。


日本丸の前には上皇上皇后両陛下行幸啓記念碑が建つ


重文に指定された同じ年の海の日(7月17日)に、当時の天皇皇后両陛下が日本丸に行幸啓された。上はそれを記念して建てられた碑だ。


満船飾が施された日本丸(写真提供:帆船日本丸記念財団)


特別な祝いごとのときには、国際信号旗を船首から船尾までマストの上を通して飾られる。これを満船飾(まんせんしょく)という。

「次々に新しいものが生まれるみなとみらいの中で、日本丸は最古参です。今では見慣れた風景のひとつと思われがちかもしれません。でも、ほんとうは日本丸がここに街のシンボルとして存在しているのは横浜市民にとっての誇りでもあることを、これからもしっかり伝えていきたい」と三木さんは熱く語った。



取材を終えて




今回、「よこはまたろう」さんが、小学校での署名活動を覚えていてくれたことに、三木さんも久保井さんもとても喜んでいた。「よくぞ覚えていてくださった。感謝感激です」と。

もうすぐ100歳を迎える日本丸。それだけにメンテナンスに掛かる費用も年々負担が大きくなってきているという。
「それでも、たくさんの市民の応援を励みに、100歳を目指して頑張ります!」とお二人は最後に力強く結んだ。


船体にも「100年への航海」とある


ところで補遺をひとつ。
かく言う筆者、長年横浜に住んでいながら、今回、取材後に初めて日本丸を見学させていただいた。手入れの行き届いた船内にも感銘を受けたが、実は一番印象深かったのはこの景色。


ロープだらけじゃ!


帆船のさまざまなロープやワイヤー類を動索・静索(どうさく・せいさく)と呼ぶそうな。日本丸には約450本の動索と約168本の静索があるという。

このロープの多さは、近くで見なければなかなか気づかない。大きな帆船に秘められた繊細さを思い知らされた。と同時に、これらの複雑なロープやワイヤーを巧みに操るには、間違いなく心をひとつにした多くの人間の手が必要だろう。

確かに、帆船は「シーマン・シップ」を育てるうえでうってつけの生きた教材なのだということが、この光景から理解できた。



―終わり―


編集協力

公益財団法人帆船日本丸記念財団
(日本丸メモリアルパーク・帆船日本丸・横浜みなと博物館)
住所/横浜市西区みなとみらい2-1-1
電話/045-221-0280
【帆船日本丸・横浜みなと博物館利用情報】
休館日/月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始、臨時休館日
開館時間/10:00~16:30(入館は16:00まで)
※横浜みなと博物館および併設する柳原良平アートミュージアムは
改修工事のため2021年6月7日~2022年4月頃まで休館。
※入館料の詳細は下記財団公式ホームページをご覧ください。
https://www.nippon-maru.or.jp/


参考資料

『よこはま港 第145号』一般社団法人横浜港振興協会編集発行(2021年4月刊)
『帆船日本丸記念財団30年のあゆみ』公益財団法人帆船日本丸記念財団発行(2015年4月刊)

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  • 元商船大機関科実習生です。と言っても私の場合は日本丸では無く海王丸での実習でしたが。私の時は航海科が日本丸でカリフォルニアまで遠洋航海、機関科は海王丸で日本国内を回った後に、汽船に乗り換えて世界一周の遠洋航海でした。乗る船は違えど我々のマザーシップに変わりはなく、青春時代を懐かしく思い出しました。記事にして頂きありがとうございます。(今でも船乗り。南太平洋上より)

  • 思い出しましたよ〜昔よく訪れてました!

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