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空襲で焼失したという横浜最後の歌舞伎専用劇場「横浜歌舞伎座」の軌跡とは?

空襲で焼失したという横浜最後の歌舞伎専用劇場「横浜歌舞伎座」の軌跡とは?

ココがキニナル!

UR(都市再生機構)末吉町4丁目住宅の入り口に最近「横浜歌舞伎座跡」のプレートが設置されました。横浜大空襲で焼失したという横浜歌舞伎座の調査をお願いします!(たーやすさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

関東大震災で多くの劇場を失い、さらに芝居から映画へと娯楽がシフトしていく昭和初期の横浜に忽然と登場した「横浜歌舞伎座」は、歌舞伎を愛好するハマっ子たちにとって待望の劇場だった。

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ライター:結城靖博



関東大震災前までの横浜の歌舞伎興行については、以前はまれぽでも「横浜劇場」にスポットを当てた過去記事がある。だが、ここでは震災後に誕生した「横浜歌舞伎座」については触れられていない。

また、横浜の映画館史をテーマにした筆者の最近の記事にも、「横浜歌舞伎座」の名前は出てこない。震災後は芝居小屋から映画館への変遷に目を向けていたからだ。

今回は「横浜歌舞伎座」を正面から取り上げよう。同時にそこから「横浜と歌舞伎の深い関係」が浮き彫りにできればと思う。
だがそのためには、まずやはり「事の始まり」から見ていかなければならない。



横浜に芝居小屋が林立したワケ




筆者の映画館史の過去記事では、「映画館がたくさんできた理由は、そこに芝居小屋がたくさんあったから」という事情を記した。だが、「ではなぜ芝居小屋が横浜にたくさんできたのか」については、それほど突っ込んで書いていない。

実はそこがキモだ。その根っこには、やはり開港場(かいこうば)の誕生が絡む。


五雲亭貞秀筆「神奈川横浜港案内図絵」1860年(横浜市中央図書館所蔵)


開港期の横浜の絵図。南蛮船がいっぱい停泊し、その先に開港場(関内)がある。そしてさらにその奥(関外)に、ポツンと四角い敷地が見える。そこは、開港場に居留する外国人(公使や商人)をもてなすために横浜で初めて建設された公娼施設「港崎(みよざき)遊郭」だ。

遊郭にはそれに付随する娯楽施設が付き物だった。その代表格が芝居小屋や寄席。かくして横浜は開港場を中心に国際港湾都市として発展していく過程で、遊郭が形成され、劇場街が生まれていった。


五雲亭貞秀筆「神奈川横浜新湊港崎町遊廓花盛之真景」1860年(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵には港崎遊廓で花見を楽しむ庶民の姿が描かれている。当時は遊郭内自体が、昼間は庶民が往来する「花魁に会えるかも、ワクワク」のテーマパークみたいな存在でもあった。ちなみに港崎遊郭は今の横浜スタジアムがある横浜公園に位置していた。

横浜の遊郭はその後、港崎→吉田町→高島町→真金町と変遷していく(移転のほとんどの原因が火事なのだが)。いっぽう、遊郭が去った後の場所には芝居小屋、寄席など娯楽施設が残り、大衆のための歓楽街として発展していく。

明治から昭和にかけて伊勢佐木町を中心とする関外エリアが国内有数の劇場街と化していくワケには、こうした背景があった。



歌舞伎黄金時代に輝いた横浜の芝居小屋




明治期、この国は近代歌舞伎の黄金時代を謳歌する。それを支えた3人が一世を風靡した「団菊左」、すなわち九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次だ。

この3人の名門役者も横浜の舞台に度々お目見えしている。そのきっかけをつくったのが、稀代の女形・三代目沢村田之助(たのすけ)だ。が、この人については横浜ゆかりの役者としてのちに詳述したい。

今は1868(慶応4)年の田之助の横浜・下田座(のちの下田座さの松)での公演が、「団菊左」をはじめとする江戸の名優が来浜する契機となったということだけを記しておく。


九代目市川団十郎(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)


団十郎はまだ河原崎権十郎だった1872(明治5)年に横浜の「下田座さの松」で「忠臣蔵」を上演。以来、亡くなるまでの間に5回横浜で公演を行っている。

また団十郎の「忠臣蔵」上演をさきがけとして、東京公演に先んじて正月に横浜で一流役者が興行を行う「大芝居」が慣例化していく。


五代目尾上菊五郎(国会図書館「近代日本人の肖像」より)


菊五郎も火災で消失した「蔦座」の再建舞台開きに一座をともない出勤。


初代市川左団次(国会図書館「近代日本人の肖像」より)


左団次も「関外の大火」で焼失した喜楽座が翌年早くも再建すると、元旦の舞台開きを勤めている。

「関外の大火」とは1899(明治32)年8月に起きた伊勢佐木町一帯の大火事のことだ。この大火が起こる直前、伊勢佐木町界隈には羽衣座(旧下田座さの松)・両国座(大火後「喜楽座」に改称)・賑(にぎわい)座・蔦座・勇座など、すでに多くの芝居小屋が軒を連ねていたが、そのほとんどが焼失してしまう。

しかし大火後すぐに羽衣座・喜楽座(旧両国座)・賑座など主だった劇場は再建され、加えて雲井座(のち「横浜座」)など新たな劇場も次々に生まれ、伊勢佐木町界隈は演劇街としてさらに発展していく。


「横浜伊勢佐木町通」(横浜市中央図書館所蔵)


大火後拡張された道路の左右には、芝居小屋の幟(のぼり)がひしめき合うように掲げられる。


大火翌年頃の伊勢佐木町劇場分布図(基図は『今昔マップon the web』より加工)


注:(『シネマ・シティ ―横浜と映画―』の巻末資料をもとに作成した上図にある「蔦座」は、別資料『ときめきのイセザキ140年』では大火焼失後廃座になったと書かれている。)

当時の数ある横浜の劇場の中でもっとも代表的な存在は、大火後両国座から改称した「喜楽座」だった。再建後の舞台開きに出勤した左団次以降も、ここでは多くの一流役者による大歌舞伎が上演された。



「横浜伊勢佐木町通(喜楽座)」(横浜市中央図書館所蔵)


いっぽう、喜楽座より少し大衆的な劇場として人気を博したのが「賑座」だ。

ここで上演される舞台は別名「ハンケチ芝居」と呼ばれていた。横浜市内の下町の家庭では当時輸出用のハンカチーフ縫いを内職する女性が多く、こうした職に就く女性が観客の多くを占めていたため、その名が付いたという。


「横浜伊勢佐木町通り(賑座)」(横浜市中央図書館所蔵)


前掲の大火翌年頃の劇場分布図からも見てとれるように、この2つの劇場が伊勢佐木町通りをはさんではす向かいに建ち、しのぎを削っていた。

1903~04(明治36~37)年に「団菊左」が相次いで亡くなった後、歌舞伎界で一世を風靡したのが十五代目市村羽左衛門(うざえもん)だった。彼もまた喜楽座をはじめ横浜の劇場にたびたび出勤し、横浜歌舞伎界は大正に入っても活況を呈した。

そのいっぽうで、多くの劇場では歌舞伎だけではなく、新派や翻訳劇・オペラ・バレエなど多彩な新興演劇を上演していく。なかでも新派はそこから「ハマッ子芝居」と呼ばれる流れが生まれ、いかにも新都横浜らしい演劇状況が展開される。


「喜楽座 芝居番付」(横浜市中央図書館所蔵)


上は「オッペケペ―節」で名を馳せた川上音二郎一座が1903(明治36)年に喜楽座で上演した翻訳劇の芝居番付(=プログラム)だ。

とはいえ、大正時代は庶民の娯楽が演劇から映画へと徐々にシフトしていく過渡期でもあった。それが、1923(大正12)年の関東大震災による劇場の焼失・再建以降一気に加速していく様子は、映画館史の過去記事で紹介した通りだ。


「(大横浜名所)伊勢佐木町通り」(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵葉書では、震災後の伊勢佐木町を象徴する「洋画の殿堂」オデヲン座の近代的な建物が、周囲を圧倒している。



そうした中、突如「横浜歌舞伎座」が誕生!




震災以前の1915(大正4)年に、すでに喜楽座は横浜初の椅子席を設けた劇場に改装され、映画と芝居を複合させた「連鎖劇」に活路を見出す。が、震災後の1930(昭和5)年には日活の傘下となり、5年後に「日活館」と改称し映画専門劇場となる。

賑座もまた喜楽座が改装した同年に「朝日座」と名を変え、しだいに映画上映館に転換していく。


朝日座に改称後の旧賑座(横浜市中央図書館所蔵「横浜朝日座前通り」)


その他の芝居小屋も昭和に入ると、次々と映画館に変わっていった。

そんな状況下で、伊勢佐木町通りのほぼ西端、伊勢佐木町6丁目に近い末吉町(すえよしちょう)に、まるで時代の流れにあらがうかのように「横浜歌舞伎座」が誕生する。

まずはキニナル投稿の「たーやすさん」が教えてくれた跡地プレートを確認しよう。

正式名称「UR都市機構末吉町四丁目市街地住宅」は、京急・黄金町駅から徒歩数分の場所にある。


改札を出たら右手へ進む



大岡川に架かる太田橋の向こう、右側に見える茶色い建物がそれだ


ビルは1966(昭和41)年竣工の10階建てで、1・2階には飲食店や歯科医院・美容院・会社のオフィスなどが入っている。


築55年、なかなかの風格を感じる



ビルの左側はコンビニを一軒はさんで伊勢佐木町6丁目交差点だ



同交差点から伊勢佐木町通りの関内方向を望む


かつての伊勢佐木町通りの劇場街中心地は1~3丁目付近。写真に見える通りのだいぶ先だ。下図は喜楽座や賑座があった場所と、末吉町四丁目市街地住宅との位置関係を示したもの。


© OpenStreetMap contributors)



しかし「たーやすさん」のご指摘通り、確かにビルの入り口左手に目的のプレートがあった



プレートの上にあるのは「三吉(みよし)演芸場」のポスターとプログラムだ


三吉演芸場は横浜橋商店街近くに現存し、ここも昭和の初期まで歴史をたどることができる老舗の大衆演劇劇場だ。


肝心のプレートにもっと近づいてよく見てみる


プレートの銘には「阪東橋商事株式会社70周年」と冠されている。


ビルの中を覗くと2階に同社が入っているらしい


あとで調べたところ同社は不動産業を営む企業で、その創業70周年を記念して同ビルゆかりの「横浜歌舞伎座」史跡プレートを昨年設置したようだ。

それにしても、プレートとともに三吉演芸場のポスターも掲げているところを見ると、同社の経営者はよほどの演劇愛好家と想像される…。



「横浜歌舞伎座」とはどんなところだったのか?




「阪東橋商事」も気になるところだが、今深掘りしたいのは「横浜歌舞伎座」だ。


というわけで、横浜市中央図書館に足を運んだ


すると、意外なほど多くの資料に「横浜歌舞伎座」についての記録が残されていた。なかでも横浜演劇史研究家・小柴俊雄(こしば・としお)氏の『横浜演劇百四十年』の中での詳述と、柴田勝(旧姓・大森)氏がガリ版で作成した手書きの私家本『横浜歌舞伎座の記録』は大いに参考になった。なお、柴田勝氏は、サイレント時代の大正~昭和初期の映画監督・大森勝氏と推察される。

上記2冊はじめ図書館で当たった数々の資料によると、関東大震災以後、芝居小屋の再興が果たせなかった横浜に待望の劇場「横浜歌舞伎座」が誕生したのは、1932(昭和7)年12月のこと。外観は日本調唐破風(からはふ)造りの本格的な劇場だった。

今回、ビジュアル資料もあるにはあったが、本稿に掲載可能な図版がなかなか見つからなかった。そんな中、中区制五〇周年記念事業実行委員会発行の『横浜・中区史』の下の頁は、かなり貴重な紙面だ。


『横浜・中区史』p.424・部分(横浜市中央図書館所蔵)


劇場外観だけではなく、右下には舞台写真、左下にはプログラムの写真が掲載されている。

同年12月15日のこけら落としには、東京から七代目沢村宗十郎、二代目河原崎権十郎らを招き、「安宅勧進帳」「実録先代萩」などが上演され、震災後10年近く歌舞伎に飢えていたハマっ子たちで連日大入りになったという。


横浜歌舞伎座こけら落としプログラム(横浜市中央図書館所蔵『横浜歌舞伎座の記録』より)


その後も横浜歌舞伎座は東京から第一線の役者を呼び寄せ、昭和初期の横浜にあって歌舞伎のメッカとなる。

いっぽうここでは歌舞伎だけではなく、喜劇・剣劇・新大衆劇・新国劇・女剣劇さらにはバレエまで、幅広いジャンルの舞台も上演された。

そうした中、1934(昭和9)年に同座附属の「更生劇団」が編成される。劇場独自の歌舞伎劇団だ。当初の中心メンバーは前記した賑座の「ハンケチ芝居」で一躍人気を博した市川荒二郎だった。彼は横浜歌舞伎座ができると同劇場の座頭となる。

そのほか沢村清之助・実川延蔵・森野五郎・市川栄升など、この劇団から座付きの人気役者が輩出されていく。


「横濱歌舞伎座々附人気俳優(更生劇團)」(横浜市中央図書館所蔵『花柳演芸かゞみ』より)


5年間にわたる更生劇ののち、1938(昭和13)年から同座で6年半におよぶ公演を続けたのが日吉良太郎一座だった。
時は太平洋戦争の只中と重なる。この時代になぜ一座が生き残ったかといえば、戦時下の国策に沿って軍事劇に活路を見出したからだ。とはいえ日吉は、いっぽうで「ミラー事件」など横浜独自の題材を扱った野心的な現代劇もここで上演している。

かくして昭和初期の横浜の演劇界において、横浜歌舞伎座は一時代を画した。
だが残念ながら、結局は戦争によってその歴史が断たれる。開館から約12年半を経た1945(昭和20)年5月29日、横浜大空襲で焼失し廃座に至る。



横浜に歌舞伎を復活させた男




以上が横浜歌舞伎座のざっとした歴史だ。では、この劇場をつくったのは、いったいどんな人物だったのだろう。

その人の名は「熊谷末吉」。生まれは東京だが、1903(明治36)年に横浜・伊勢佐木町で「若松寿司」を開業する。その29年後、大手の松竹などが横浜の演劇主体の劇場経営から撤退する中で、時代にあらがうかのように末吉町で横浜歌舞伎座を立ち上げたのだ。もともと義太夫を好み、自らそのシブい喉を聞かせる数寄者(すきしゃ=芸道に執心する人)だったという。


熊谷末吉(横浜中央図書館所蔵『神奈川県名鑑』より)


熊谷の興味深いところは、彼がいかにも横浜商人気質らしいアイデアマンだった点だ。

横浜歌舞伎座の木戸銭はそば一杯10銭の時代に最低でも80銭。ただし、自身が経営する若松寿司と連携し、寿司店と劇場双方で割引券を発行し、共に利用すれば安くなるサービスを編み出した。

ちなみに、若松寿司はその後福富町に移り、一世紀以上のれんを守っていたが、近年閉店してしまった。今もし存続していれば、おそらく御子孫からもっと詳しい話を伺えただろう。



記憶にとどめたい二人の横浜ゆかりの歌舞伎役者




最後に横浜ゆかりの歌舞伎役者について書き留めておきたい。

数多いるゆかりの役者の中でも欠かせない人物、それは「市川荒二郎」だ。

本稿で度々登場した名だが、関西梨園の名門・市川荒五郎の次男として生まれた荒二郎は、1897(明治30)年に横浜へ来て、前述した賑座の「ハンケチ芝居」で人気を博す。

さらにその後横浜一の大劇場・喜楽座で活躍し、「ハマの団十郎」の愛称で横浜歌舞伎を代表するスターとなる。


市川荒二郎(横浜市中央図書館所蔵『よこはま白話』より)


その後横浜歌舞伎座に座頭として迎えられた彼は、1935(昭和10)年、自宅があった横浜の地で病気のため亡くなる。享年65歳、横浜の歌舞伎役者として人生を全うした。

いっぽう、もう一人、まったく別の視点から「横浜ゆかりの歌舞伎役者」として記憶にとどめておきたいのが、三代目沢村田之助だ。田之助の舞台がきっかけで横浜に一流の役者が出勤するようになったことはすでに記したが、どういうことか?


「沢村田之助曙草紙」(横浜市中央図書館所蔵)


三代目沢村田之助は、幕末の江戸で絶世の美貌が讃えられた人気女形だった。だが1867(慶応3)年、芝居中の事故で壊疽(えそ)を病み、横浜居留地に住むヘボン博士によって右足切断の手術を受け、日本人で初めて義足を装着する。

ヘボン博士――ローマ字の成立にも関係し、幕末の日本人に献身的な治療を施したアメリカ人医師だ。


ヘボン博士の診療所があった神奈川区・宗興寺境内の記念碑


田之助はその義足をつけて江戸の舞台に立ち脚光を浴びる。そして翌年5月に来浜し、ヘボン博士へのお礼興行を果たす。その舞台こそ本稿初めに記した下田座の興行だ。

この公演は江戸からわざわざ陸路・海路で見物客が押し寄せるほどの成功をおさめ、これを機に横浜の舞台に重きを置いた江戸の名優たちが続々と来浜するようになったという。

横浜郷土研究会員の池田千代吉氏は、著書『横浜の芝居』の中で「横浜の歌舞伎はヘボンから始まる」とさえ断じているが、見方を変えれば「三代目沢村田之助から始まる」とも言えるだろう。だが田之助はその後壊疽が悪化し四肢すべてを切断。天才的女形の悲運な生涯は、1878(明治11)年、わずか33歳の若さで幕を閉じた。



取材を終えて




横浜ゆかりの役者は、ほかにもまだまだたくさんいる。歌舞伎だけでなく、新派その他のジャンルまで視野を広げればそれこそ切りがない。別の機会にぜひ紹介できればと思う。

いずれにせよ、明治から大正にかけて横浜は多彩な舞台が百花繚乱する演芸王国だった。演芸と言えば、もうひとつ横浜で大いに栄えたのが「寄席」だ。この寄席については約20年前に野毛に「横浜にぎわい座」ができて、伝統文化が息を吹き返した感がある。


平戸桜木道路沿いの「横浜にぎわい座」


だが歌舞伎に関しては戦災で最後の砦が失われて以降、横浜の地からその拠点は生まれていない。現在、横浜市では劇場新設が検討されているようだが、どうやらバレエ・オペラの公演が主体となるらしい。

2013(平成25)年に改修された本家東京の「歌舞伎座」は、巨大な歌舞伎タワーをバックに偉容を誇っている。もちろんそんな大仰なものでなくていいから、横浜にもいつの日か本格的な歌舞伎専用劇場が復活する日が来ないだろうか。かつてあれほど歌舞伎に縁の深い土地柄であったのだから。


―終わり―


編集協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/

国立国会図書館
住所/東京都千代田区永田町1-10-1
電話/03-3581-2331
開館時間/9:30~19:00(土曜日は17:00)
休館日/日曜日、国民の祝日・休日、年末年始、第3水曜日(資料整理休館日)
https://www.ndl.go.jp/index.html

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/

※各図書館は感染症対策のため開館時間や休館日、利用方法などを変更している可能性がございます。詳しくは公式HPをご確認ください。


参考資料

『神奈川県名鑑』横濱貿易新報社出版部発行(1935年12月刊)
『花柳演芸かゞみ』自治新報社発行(1936年9月刊)
『よこはま白書』長谷川伸著、北辰堂発行(1954年3月刊)
『横浜の芝居』池田千代吉著、池田泰子発行(1978年2月刊)
『横浜歌舞伎座の記録(三人の団十郎)』柴田勝著・発行(1984年5月刊)
『横浜・中区史』中区制五〇周年記念事業実行委員会編著・発行(1985年2月刊)
『横浜の芝居と劇場』横浜開港資料館編集、横浜開港資料普及協会発行(1992年8月刊)
『横浜演劇百四十年』小柴俊雄著、ケー・エス・シー発行(2001年2月刊)
『シネマ・シティ ―横浜と映画―』横浜都市発展記念館/横浜開港資料館編集、横浜都市発展記念館発行(2005年1月刊)
『なか区 歴史の散歩道』横浜開港資料館編著、神奈川新聞社発行(2007年10月刊)
『OLD but NEW』伊勢佐木町1・2丁目地区商店街振興組合「イセザキ歴史書をつくる会」編著、神奈川新聞社発行(2009年7月刊)
『ときめきのイセザキ140年』横浜開港資料館編集・発行(2010年10月刊)
『写真アルバム 横浜市の昭和』いき出版発行(2012年3月刊)
「日本映画情報システム」文化庁(https://www.japanese-cinema-db.jp/)

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  • 若松寿司店、ブックオフの裏手、現在焼き鳥王国のあるところでしたね。
    大将がもう高齢で跡継ぎも居なかったのでお店を畳まれてしまいましたが、場所柄の割にはネタも良く、価格も板前が握るお寿司屋さんにしてはそれほど高くない、下手な居酒屋よりもよほど満足できるお店でした。

  • 昔の写真を見ると確かに芝居小屋が林立していましたよね。あれらはどこへ行っちゃったのだろうと思っていました。今回その歴史が明らかになってまた横浜が好きになりました。ありがとうございます!

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