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元プリンセスプリンセスの中山加奈子さんってどんな人?後編

元プリンセスプリンセスの中山加奈子さんってどんな人?後編

ココがキニナル!

日本を代表するガールズロックバンド・プリンセスプリンセスの中山加奈子さんって、どんな人?

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ライター:山本航

アラフォー・アラフィフの人にとって、人生の大事なシーンでプリンセスプリンセスの名曲が流れてしまうような日常を味わった人は数知れないのではないだろうか?久々の「はまびと」にご登場いただいたのは、あの時代、誰もが口ずさんだ珠玉の名曲を多数世に送り出した、元プリンセスプリンセスの中山加奈子さん。
 
前編では、横浜に引っ越して来るまでの思い出や、横浜でのロックな学生時代、そしてのちのプリプリとなるメンバーとの出会いや結成当時の思い出を話していただいた。
さて後編は?
誰もがキニナル、プリプリのブレイクから解散、そして再結成までを振り返っていただく。
 


大好きなローリングストーンズに身を包む

 中山加奈子(なかやまかなこ)
誕生日:1964年11月2日
出身地:京都府京都市
血液型:B型
身 長:156cm
所 属:Lip Mark Records
HP:kanakonakayama.com

 

振り返ってみると、人生に無駄なことはなかった


 
ーー坂小町として念願のメジャーデビューを果たしましたが、ロックと言うより、当時はフリフリの衣装や、水着やレオタードの写真もありましたね。
 
※赤坂小町デビュー前のお話は「横浜育ち!元プリンセスプリンセスの中山加奈子さんってどんな人?前編」をチェック
 
そんなグラビアの仕事がいっぱいありました!みんなチクワみたいなまだ子ども体型だったのに(笑)。
やっと色々な衣装が着れる事になった時も、私は下品に見えるからヒョウ柄禁止とか、髪を切られたり。
 
ーーああ・・・だからですか!プリプリを初めてテレビで見た時、かわいいファッションの他のメンバーと異質というか、一人だけすんごいロックな人がいると思ったら、中山さんでしたから(笑)。
 
(笑)・・・そうですよ!だからその後、プリプリになって、事務所もシンコー・ミュージックに移った時「衣装は好きなものを着ていいよ」と言われて、もう、やったー!って。
首輪の取れた犬みたいになって、まさに高校生のときにやりたかった金髪やヒョウ柄や革ジャンとか着まくりましたね
 
ーーそうなるまでの道のりはまだまだ険しかったんですね。
 
結局、赤坂小町では売れなくてレーベルとの契約も切れ、合宿所も出て行くことになりました。
その後、新しい事務所に移り、バンド名も「JULIAN MAMA」に変えましたが、そこはとにかく厳しいところで、カヴァー曲ばかりやらされました。
しかも、パット・ベネターから甲斐バンド、チャカ・カーンに角松敏生(かどまつ・としき)さんと、ジャンル問わず。
 
ーーほんとだ。ジャンルがバラバラですね。
 
でも、その時の経験が後から思えばいい勉強になりました。教えてくれる方もたくさんいて、とにかく練習!
2週間に1度はオリジナル曲を作ること、という辛い時期だったけれど、この時期にすごく成長することができました。
 


ピンチもチャンスだったと振り返る

 
その後ソニーミュージックと契約が決まって、バンド名が「PRINCESS PRINCESS」に変わり、事務所もシンコーミュージックに移籍しました。
その時「オリジナル曲はある?」と聞かれて、堂々と「あります!」と言えたし。人生に無駄なことはないんですねー。
 
ーーシンコーミュージックに移籍したきっかけはなんですか?
 
TVKの番組に出演しているのを観ていたマンガ家さんが、シンコーミュージックの草野昌一(くさの・しょういち)社長とお知り合いで、紹介してくださったんです。
※草野昌一氏は作詞家の漣健児(さざなみ・けんじ)としても有名
 


草野昌一さん。同事務所からはレベッカや斉藤和義(さいとう・かずよし)などもデビュー

 
ーーえー!?では、プリプリのブレイクは横浜でのご縁なんですね。

 
そうですね。とにかく素晴らしい事務所で、ロックが好きな会社だし、スタッフを育てる力があるし。夢の大きい社長で、みんなが尊敬していましたね。
 

 
ーー移籍してからはトントン拍子でしたか?
 
移籍してすぐは、全然売れてなかったけど、環境は格段に良くなりましたね。
マネージャーもLIVEの後に、「今日はバッジがこんなに売れたよ!」とか言ってくれたり。その横でメンバーが物販の計算しててとか(笑)。
名古屋でのライブの時に、やっと初めて男の子がひとり立ちあがって観てくれたんですよ。次のときは立ち上がる人が倍に、そして次回はさらに倍と増えていきましたね。
そうこうしているうちにシンコーミュージックに移籍して出した、2枚目のアルバム『HERE WE ARE』がいきなりオリコン8位に入って。
 

ーーえ!?何かきっかけでも?
 
全国ライブハウスツアーをしていたんですけど、テレビに出るようになったし、渋谷公会堂も決まっていて、ある日突然のニュースでしたね。タイアップも決まっていたし、いろいろな方のおかげですね。何が最初に売れたんだったっけなー。
 

ーー

『MY WILL』で知られて、『19 GROWING UP』でドーンときた感じですね。
 
あー、そっかー。「ヴィクトリア」のCF曲だったし。その頃から聴いてくださってる方々には、本当に感謝ですね。皆さんのおかげでやってこれました。
 


アルバム『HERE WE ARE』には『MY WILL』『19 GROWING UP』ともに収録

 
ーー特に中山さんは昔から、女性ファンが多いですよね。今みたいに気軽に女の子がロックファッションをするのはまだ珍しい時代だったので、ロック好きな女の子にとって中山さんは「ロックファッションリーダー」的存在でした。
 
そうなんですか!?うれしいです。
 
 
 
メンバーと県民ホールの前で、絶対ここでやろうねと誓った
 

ーー

神奈川県民ホールや横浜アリーナで初めてLIVEをした時には、どんな気持ちでした?
 
県民ホールはほぼ毎回、ツアーに組んでいましたよね。売れなかった当時、大晦日にともちゃん(今野登茂子さん)以外のメンバーが実家に泊まりに来たことがあったんです。私の家族と一緒に紅白を観てお雑煮を食べて、きょんちゃん(富田京子さん)の車で港が見える丘公園まで出掛けたんですね。それで神奈川県民ホールの前で「いつかここでやりたいね」って、みんなで話していました。だから県民ホールでやるのは、いつも嬉しかったですね。
  
ーー横浜アリーナより?
 
横浜アリーナのときは・・・嬉しいとかいう前に、あまりに広いからモニターはどうなるんだろうとか?とか、花道が長いけど大丈夫かなー(笑)とか、そんな心配をしてましたねー。
 


ゆっくりと語りながら思い出がよみがえる

 
ーーそういった横浜での思い出や、特定の場所をイメージした曲はありますか?
  
実はいろいろな曲に散りばめられています。一番代表的なのは『SHE』ですね。あの曲は、設定はアレンジしていますが、高校の友人のことを書いています。今はソロの自分のLIVEではあまりプリプリの曲はやらないのですが、先日のソロアルバム発売記念LIVEで、この曲を今野さんに歌ってもらいました。
 
ーー今野さんとの曲作りは、他の人とどのような違いがありますか?
 
彼女の曲は「ともちゃん!」というしっかりした自分としての世界観があるので、そこを生かすように作詞をしました。
 


『SHE』収録の最新ベストアルバム『THE REBIRTH BEST〜再会〜』