こんにちは、ゲストさん。
ログインすると、すべてのコンテンツを
ご利用いただけます。
今では外資や新規進出の方が目立つ横浜市内ホテル事情ですが、横浜で一番有名な地元老舗ホテルである「ホテルニューグランド」が19年4月から隣接複合ビルでパンの自社製造を始めると。確かに多くのホテルがホテル...
よこはまいちばんさん
実質は活動の中心が東京となっている地元横浜/神奈川の放送局「アール・エフ・ラジオ日本」。既に多くのAM放送局が導入しているFM補完放送(ワイドFM)は周波数割り当てされているにもかかわらず未だに開始さ...
よこはまいちばんさん
大黒ふ頭の路上にナンバーのハズされた車が多数駐車しているのですが、あれはどんな事情なんでしょうか?意外とキレイな車が多いです。一度調査してみて下さい。
もんがさん
1杯300円の激安ラーメン! 茅ヶ崎駅前の「大龍」と金沢文庫の「大龍」は同じチェーン店?
調査ありがとうございました。長野県の中野市にも大龍焼きそばがあって惜しまれつつ閉店したそうです。ソー...
さいぞうさん
横浜駅自由通路のみどりの窓口前ぐらいに、いつの時期かガス灯と赤い靴の女の子の像は、いつの時期に設置されたのか、また設置された目的が気になります。(teto_teto55555さんのキニナル)
当時、横浜駅には待ち合わせ場所がなかったので
“待ち合わせ場所に”と1982年8月に南口に設置された。
ライター:松宮 史佳 (2011年12月25日)
山下公園にある赤い靴の女の子像は見たことがあるが、横浜駅にも像があるというのは本当か?
早速確かめるため、横浜駅へ。迷って案内所で聞くこと2回。すると…あ、あった!
JR横浜駅・自由通路にある「赤い靴の女の子」像とガス灯
横浜駅に像が設置されたのはいつなのだろう?JR東日本・横浜支社へ電話で問い合わせてみる。
担当の方によると、もともと赤い靴の女の子像は1982年8月に南口に設置された。
だが、駅構内の工事に伴い1998年に撤去され、倉庫に大切に保管されていたようだ。
当時、赤い靴の女の子像は長年“駅の待ち合わせ場所”として親しまれ、市民にも広く知れ渡っていた。
膝を抱え、どことなく寂しげな女の子
また、乗客から「赤い靴の女の子像はなくなってしまったのか」という問い合わせも数多く寄せられていたことから、駅の工事が一段落ついた2010年12月1日に現在の自由通路に移設されたという。
ちなみに「赤い靴の女の子像」の両脇にあるガス灯は、像だけだと待ち合わせ場所としてわかりにくいので、“待ち合わせとしてわかりやすいように”、そして“横浜がガス灯発祥の地”ということもあり併せて設置された。
ところで、なぜこの赤い靴の女の子像を待ち合わせ場所の目印として設置しようと考えたのだろうか?
その理由を担当者の方に聞いてみると、「赤い靴を愛する市民の会」という市民団体により横浜駅に寄贈されたからだそうだ。
ならば、「赤い靴を愛する市民の会」に寄贈した理由を直接聞いてみるしかない!
ということで、早速連絡を取り、代表の方へ突撃インタビュー!
「赤い靴の女の子像」の原風景
山下公園に程近いところに事務所がある「赤い靴を愛する市民の会」。この会は“童謡を歌い続けよう”と1985年に合唱団を創設された。現在は「赤い靴記念文化事業団」へ名称を変更し、4歳から95歳までという幅広い年齢層の370人が在籍し、合唱団やミュージカル、ダンスなどの活動を行っている。
早速、代表の松永春さんに「赤い靴の女の子像」を横浜駅に寄贈した経緯を伺った。
赤い靴記念文化事業団がある「シルクセンター」
松永さんは1929年横浜市中区生まれ。両親は材木商でとても忙しく、「僕の面倒を見る暇がなかった(by松永さん)」ので、5歳の時に幼稚園に入った。
1934年当時、幼稚園に行くことはかなりめずらしく、園児はたった13人!松永さんの幼稚園は教会が経営していたため、3人いる先生は全員外国人だったようだ。
若々しくダンディーな松永さん
5歳の松永さんは家を出る時からエプロンをし、バスケットに入っているお弁当を持って幼稚園に通っていたとのこと。そしてお昼になると「折り畳み式の箸」でお弁当を食べていたのだとか。当時の横浜はなんてモダンだったのだろう!
1930年代の山手には外国人が多く居住していたようだ。また、メリケン波止場(現在の大さん橋)には世界を一周している船やヨーロッパなどから数多くの船が来ていたとのこと。
ある日、松永さんの通う幼稚園の園長だったアメリカ人が帰国することになり、松永さんは皆と横浜港に見送りに行った。
「金髪のかわいい女の子が船のタラップを上って行った姿を今でも鮮明に覚えています」と松永さん。
当時の想い出が色濃く反映されている絵本「赤い靴」松永さん作
戦後直後の横浜港にはアメリカの軍艦が停泊し、山下公園には将校の家が立ち並んでいた。
西部劇が好きで、アメリカに強い憧れを抱いていた松永さんはよく港に行き、「いつかアメリカに行きたい」と思っていたそうだ。
そしてついに1962年、知り合いのツテを頼ってアメリカのサンディエゴへ行くチャンスが到来!
「初任給が1万3800円だった」という当時の飛行機代はなんと、28万8千円!
貯金を切り崩して渡米し、サクラメント州立大で学んだ。
赤い靴の女の子はその後、どう誕生したのか・・・次のページ≫