400年の時を超えて発見! 南区蒔田、横浜英和女学院裏にあった幻の城「蒔田城」とは?
ココがキニナル!
横浜・南区蒔田町の横浜英和女学院の界隈、横浜・戸塚区舞岡町に、正真正銘のお城が存在していたと言われていますが本当でしょうか?(マッサンさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜英和女学院の裏にあったとされているのは「蒔田城」。吉良氏の居住していた城の可能性が高いが確かな証拠はなし。舞岡に城はなかった
ライター:やまだ ひさえ
常日ごろから歴史が好きな筆者の目に飛び込んできた「横浜にも本当に城が存在していた」というキニナル投稿。
文明開化の代表みたない街、横浜にお城!?
見てみたい。
そんなわけで、まず、お城というものがどういう定義なのか、広辞苑で調べてみた。
『広辞苑第六版 あ―そ』
1430ページに「城」の記述あり
「日本では、古くは柵や石垣または濠(ごう)・土塁(どるい)をめぐらしたが、中世には、地形を利用して防御を施す山城が発達し、もっぱら戦闘用であった。戦国時代以降は、領内統治・城内居住・権勢表示などを兼ねた、いわゆる城郭が完成」と記載されている。
砦のようなものから始まり、山城になり、平地に建つ平城に進化。本丸や天守閣を有する小田原城や姫路城のような、堅牢な城になっていったわけだ。
小田原城 (フリー画像)
横浜に本当に城があったのか
横浜のお城の情報を求めて、まず向かったのは、横浜の歴史や遺跡に詳しい横浜市歴史博物館。
横浜市歴史博物館
残念ながら担当者の学芸員・阿諏訪(あすわ)さんの写真はNG。
横浜市歴史博物館では、2014(平成26)年7月19日から8月31日にかけて、「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」という企画展を開催していた。
企画展ポスター (提供:横浜市歴史博物館)
企画展図録 (提供:横浜市歴史博物館)
阿諏訪さんによると、現在、横浜英和学院が建っている場所にあった蒔田城は16世紀ごろの「戦国武将・吉良氏の居城だった」とのこと。しかし、発掘調査が行われていないため、歴史的資料が少ない「まぼろし城」と呼ばれているらしい。
現在の横浜市営地下鉄蒔田駅から徒歩5分ほどの位置にあったらしい
この企画展には「まぼろしの城」と呼ばれている蒔田城が実在していたという証拠の品が展示されていた。横浜英和学院のグラウンドから出土した、戦国時代のものと思われる「火鉢のかけら」だ。
1984(昭和59)年、横浜英和学院でグランド整備を行うために、初めての遺跡調査が行われた。「火鉢のかけら」は、その時に発掘されたものだ。
発掘された「火鉢のかけら」 (『蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君』以下資料同)
横浜英和学院で行われた発掘調査の様子
発掘された「火鉢のかけら」は手のひら大の大きさだが、実際には直径50cmほどの大きさの火鉢だったのではないかと考えられている。
発掘調査の際、見つかったかけらは1片だけだったが、鑑定によって戦国時代のものと判明した。このことは、この地に人が住んでいたことを実証する大きな手がかりとなり、居城だった可能性を色濃くしたという。しかし「城のものである」という確たる証拠はなく、あくまでまだ推測の域を出ないのが現状だ。
蒔田城主、戦国武将・吉良氏とは
吉良氏と聞くと、赤穂浪士の討ち入りでおなじみの吉良上野介(きらこうずけのすけ)を思い浮かべる方も多いと思う。実は、蒔田の吉良氏は、吉良上野介の本家筋にあたる家柄。
吉良氏は、三河国幡豆郡(ばずぐん)吉良庄、現在の愛知県西尾市の出自で、清和源氏の流れをくむ戦国武将。そのルーツは、下総国足利庄を収めた足利氏に至る。
足利氏2代目当主、足利義兼(よしかね)
鎌倉時代、源頼朝の挙兵の際に出兵、功績をあげたのが足利義兼(よしかね)。そして、その家督を継いだ義氏(よしうじ)は、三河国(現愛知県)の守護に任ぜられる。
義氏が三河に屋敷を持っていたことを伝える吾妻鏡(あずまかがみ:歴史書)
室町時代になると足利義氏の息子たちが独立。分家として家を興す。その一人、義継の流れをくむのが、現在の横浜・蒔田と東京・世田谷一帯を治めるようになった武蔵吉良氏。蒔田にお城をもった吉良氏だ。
三河と蒔田、両吉良家の位置関係
蒔田の吉良家の所領
現在の蒔田との位置関係
蒔田城を伝える模型
吉良氏は、その後、有力な戦国大名である北条氏の姫との姻戚関係を結ぶことで、力を蓄えていった。
しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原征伐(せいばつ)によって小田原城が落城、北条氏は滅ぶ。それに合わせ、蒔田城も廃城になったのではないかと考えられている。