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ハワイにヨコハマ?オアフ島の「ヨコハマ・ベイ」は横浜に関係あり?

ココがキニナル!

ハワイに行ってきた友人が、オアフ島に「ヨコハマ・ベイ」というビーチがあったと言ってました。横浜市に関係あるんでしょうか?(マリンルージュさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜出身の日本人移民が釣りをしていたという説があり。横浜はハワイ移住への出発地点だった。

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ライター:ほしば あずみ

ハワイにヨコハマ



寒い日が続き、春はまだ遠い。つい「ハワイ」という常夏の響きに惹かれてしまう。ハワイに行ったことはない。この調査のために行けるはずもない。
今や部屋にいながらにして、「オアフ島のヨコハマ・ベイ」を確認することができる時代なのだ。
 


Googleマップで確認 「ヨコハマ・ビーチ」となっている
 

その場所はオアフ島の北西部の先端付近


ホノルル空港からは車で1時間ほどの距離。島内で最も遠隔のビーチの1つで、ロコ(地元の人)が冬の波が高い時期にサーフィンのために訪れる以外は人のいない、静かな場所のようだ。
 


ストリートビューで現地の様子も見ることができる時代だ(Googleマップより)


常夏の白い砂浜と紺碧の海に憧れもつのるが、なぜここが「ヨコハマ・ベイ」なのか、確かにキニナル。

ハワイの観光サイトやガイドブックで紹介されているもっとも一般的な由来は、「横浜出身の日本人移民が休みの日に釣りをしに来ていた」というもの。
 


本来の地名「Keawaula(ケアワウラ)」の意味は「赤い港」。大量のイカで海が赤かった


そのほかの説として、
・サトウキビを製糖工場に運ぶトロッコレールの終点なので、日本人移民が日本で最初に鉄道が敷かれた「新橋―横浜」間になぞらえた
・移民船は横浜から出航したので、日本をなつかしんで名付けた
というものもあり、はっきりした由来はわからないようだ。

いずれにしても関係があるのは「日本人移民」。確かにハワイは日系人が多いことでも知られている。ハワイの日本人移民にいったいどんな歴史があったのか。そこに「ヨコハマ・ベイ」の手がかりがあるかもしれない。

横浜で移民といえば、以前はまれぽで「世界の料理が楽しめるカフェ」を紹介した「JICA横浜」。海外移住に関する貴重な資料を展示している「海外移住資料館」で、日本人のハワイ移住の歴史について伺ってみた。
 


海外移住資料館でハワイ移民にせまる


 


お世話になります、JICA横浜
 

ちょうど「魁(さきがけ)~日本からハワイに渡った人々」という特別展示も


以前もお世話になった資料館広報担当の清水さんに、解説ボランティアの長瀬さんを紹介していただく。特別に資料館内の撮影も許可をいただいて、ハワイに移住した日本移民について伺う。
 


ボランティアの長瀬さん(左)と今回も笑顔の清水さん


「ハワイへの移住については、資料館の中であまり展示も多くないんですが、日本の移民の歴史は、ハワイ移住からはじまります」と長瀬さん。

ハワイへの日本人の「公式」な移住は1885(明治18)年にはじまる。当時のハワイはカラカウア王が統治するハワイ王国。白人によるプランテーション(大規模農園)でサトウキビが栽培され、製糖工場も稼働し、労働力はハワイ人だけでは足りず、他国からの労働移民を必要としていた。
 


ハワイ王国第7代国王カラカウア(在位:1877年~1891年)


ハワイ王国は、同じ有色人種でかつ勤勉、という噂の日本人を労働力として欲していた。
アメリカの実業家で横浜駐在ハワイ王国総領事館のロバート・アーウィンの積極的な働きかけもあり、ハワイ王国と明治政府は「日布渡航条約」を結ぶ(布は「布哇(ハワイ)」の略)。

国同士の条約に基づいて移住した日本人は「官約移民(かんやくいみん)」と呼ばれた。
 


中央がロバート・アーウィン。日本初の国際結婚をした人物でもある。両隣は息子達
 

第1回移民945人はシティ・オブ・トウキョウ号で横浜を発ちホノルルへ向かった


「移民は3年契約で、食費込みながら毎月現金で15ドルの給料でした。女性は10ドル。当時は1ドルが1円でした。この時代、地方の小作人は1年間働いて収入は10円弱。しかも農家は長男しか継げません。移住すれば、毎月の収入を故郷へ仕送りすることもできると、多くの移住者が出たようです」と長瀬さん。