戸塚区鳥が丘で鳥に遺体を食べさせる鳥葬が行われていたって本当?
ココがキニナル!
昔、戸塚区鳥が丘で、鳥葬という葬儀が行われていたという話を聞いた事があります。本当にあったのか事実解明と、歴史について知りたいです(てるさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
鳥が丘で「鳥葬」、またはそれに近い「野葬」が行われていた史実はないが、戸塚周辺地区には古代の埋葬地としての歴史があった
ライター:坂本 嶺
鳥葬とは?
「鳥葬」は「チャトル」と呼ばれ、おもにチベットで行われている。チベット仏教の「魂を肉体から分断し解放する」教義のためにハゲワシに遺体を食べてもらう、という埋葬法だ。現在の日本では、刑法190条の「死体損壊罪」に触れるので禁止されている。
では、日本ではこの「鳥葬」が行われていたのだろうか。
貝原益軒(かいばら えきけん) 著「続和漢名数(ぞくわかんめいすう)」などによると、江戸時代前期まで行われていた「遺体を野に捨て置く」埋葬方法である「野葬」から発生したものであるとされている。まずはこの絵を見てもらいたい。
「九相図(くそうず)」(画像提供:河鍋暁斎記念美術館)
「筆に遊び、時代を描ききった天才絵師」といわれる画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)が描いた「九相図」である。
暁斎が生まれた江戸時代までは、自然下に遺体を葬る野葬があった、とされている。野にさらされた遺体は動物にとっては単なる「エサ」となり、犬や猫、もちろん鳥にも食べられていただろう。
しかし、その野葬の始まりや所作を詳細に記した資料はほとんど残されていない。骨すら残らないからである。
「九相図 下絵」(画像提供:河鍋暁斎記念美術館)。鳥が遺体をつついている
江戸時代以降、「墓石を立てて埋葬をする」という文化が浸透し始めたことにより、「野葬」という文化がなくなった、といわれている。この絵から推測すると、かなり「鳥葬」のイメージに近い。日本でも「野葬」というかたちで「鳥葬」に近い文化があったのだろう。
なぜ鳥が丘で鳥葬が?
では、実際に戸塚区鳥が丘で「鳥葬」は行われていたのだろうか。
かつて、平安時代の平安京(京都)には「京都七墓」と呼ばれる広大な埋葬地があり(江戸遺跡研究会編「墓と埋葬と江戸時代」参照)、その中に「鳥野辺」と呼ばれた場所があって、土葬や火葬などさまざまな埋葬が、行われていたが打ち捨てられた遺体もあったそうだ。「鳥」の字がつけられた地はかつて埋葬の地であったという話を耳にしたことがあるし、鳥が丘には戸塚斎場がある。
だが、「横浜の町名」によると「鳥が丘」の由来について、次のような記述しか見つからなかった。一つは、以前この地に「大鳥ヶ谷」「鳥ヶ谷前」と呼ばれる町名があったということ。もう一つは、鳥が丘周辺の開発を行った土地区画整理組合の名称が「鳥ヶ谷」であったことから「鳥」の字を用い、新しい町として印象づけようとしたこと。地名からは埋葬に関する手がかりを見つけることができなかった。
「町名の由来を解説した「横浜の町名」
ここで、実際に戸塚地域に鳥葬があったかどうかを聞きに、戸塚斎場を管理する横浜市役所へ行くことに。
横浜市役所7階へ
対応していただいたのは施設課の荻沼(おぎぬま)舞子さんと楠田(くすだ)祐司さん。
「・・・鳥葬?」と驚いた表情をされていた
「鳥が丘で“かつて鳥葬”があったと聞いたのですが、ご存知ですか?」と聞くと、お二人とも「まったく知らない」とのこと。
鳥が丘は1978(昭和53)年に土地区画整理事業で誕生した新しい土地で、戸塚斎場は1980(昭和55)年に設置されたが、設置前も火葬場であったそうだ。実際に足を運んでみれば火葬場としての歴史の手がかりをつかむことができるかもしれない。