鎌倉の建長寺に梶原景時の亡霊が現れる?
ココがキニナル!
鎌倉の建長寺では、昔々、施餓鬼会に遅刻した梶原景時の亡霊が現れた為、通常の儀式に追加した景時用の施餓鬼会が今も行われるとか。霊が現れた時の状況が具体的らしいので気になります(tamaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
梶原景時の霊を慎めるために行った「三門梶原施餓鬼会」は建長寺創建当時から毎年7月15日に行われている。施餓鬼棚が設けられ、30名を超える僧侶が読経する様子を参列者が見守っている。
ライター:ほしば あずみ
施餓鬼会(せがきえ)? 梶原景時?
梶原景時は鎌倉時代初期の武将。打倒平家を掲げ挙兵した源頼朝が大敗を喫した「石橋山の戦い(神奈川県小田原市)」で、平家側でありながら頼朝を見逃して命を救った縁から、鎌倉幕府では御家人として重用された。
彼の讒言(ざんげん)によって源義経をはじめ多くの御家人が失脚したが、頼朝の死後は後ろ盾を失い、66人もの御家人から弾劾を受けて鎌倉から追放される。
頼朝の死からわずか1年後の1200(正治2)年、駿河国で合戦となり討ち死にした(梶原景時の変)。
梶原景時像(萬福寺蔵 大田区馬込)
鎌倉には今でも梶原一族が住んだ地に「梶原」の地名が残り、彼が太刀についた血を洗った「太刀洗水」の伝説もある。
建長寺の創建は梶原景時の死から53年後。第5代執権北条時頼の時代、1253(建長5)年である。
臨済宗建長寺派大本山 巨福山建長寺の総門
言い伝えによると創建から間もない頃(翌年ともいわれる)の7月15日、三門(山門)での施餓鬼会が終わった直後、一騎の武者が駆け付けたという。
施餓鬼会とは日本では奈良時代から行われている仏教行事で、多くはお盆の時期に行われる。餓鬼道に堕ちた衆生に浄水や食べ物を供えて追善供養するというもの。
施餓鬼会が終わっている事を知ると武者は残念そうに立ち去ったが、それを見た大覚禅師(蘭渓道隆)が武者を呼び戻しもう一度施餓鬼会を執り行った。
武者は大変喜び、自分が梶原景時の亡霊である事を告げると姿を消した。以来建長寺では毎年7月15日、一度も欠かす事なく梶原景時のために施餓鬼会を行っているという。
かつては午前に通常の施餓鬼会、午後に梶原景時のための施餓鬼会と分けて行っていたようだが、今は通常の施餓鬼会と続けて行うそうで「三門梶原施餓鬼会」と呼ばれている。
取材を申し込んだところ、お盆の時期で繁忙なためインタビュー等はできないとの事だったが、法会の撮影は許可を得る事ができた。
どこか和やかさすら漂う開始前の様子
「三門梶原施餓鬼会」は朝8時から開始のため、当日は30分前に到着。
なお、寺の開門は8時30分なので、8時の開始時から出席したい場合は総門横の通用口から入山し、下山時に拝観受付で拝観料を納める(大人・大学、高校生:300円 小・中学生:100円)。
開始20分前、お坊さんや檀家の方が三門の下に祭壇をしつらえていた
施餓鬼幡(せがきばた)と呼ばれる、各如来の名が記された布が下げられている
四方に竹を立て、五色の幣や食べ物を供える施餓鬼棚
開始10分前になると、袈裟をつけ、沓(くつ)を履いたお坊さんたちが三々五々集まってきた
修行中のお坊さんは墨染の僧衣に草履で列をつくって入堂
開門前にもかかわらず、参列者は100人近い
特に施餓鬼会の案内などが掲げられているわけでもないのだが、毎年行われているのを知っている地元の方、たまたまサイクリングで鎌倉を巡っているところだったという観光客の方等が集まり、法会の始まりを静かに待っている。中には数十名の団体もいた。
普段は茅ヶ崎や寒川あたりで活動している「歴史さんぽの会」のみなさんや、梶原景時終焉の地にある梶原山公園(静岡市葵区長尾)で公園やハイキングコースの清掃等をおこなって梶原景時の供養をしているという「瀬名梶原会」のみなさんだ。
「瀬名梶原会」のみなさん
瀬名梶原会会長の岸さんは「毎年というわけにはいかないのですが、去年、今年と会員のみなさんと一緒に来ることができてうれしいです」と語ってくれた。
やがて国宝の梵鐘がつかれ、法会がはじまった