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戸塚区の品濃一里塚が県の史跡どまりとなっている理由は?

戸塚区の品濃一里塚が県の史跡どまりとなっている理由は?

ココがキニナル!

東海道の一里塚は戦後の都市開発でほとんど消え、場所すら特定できないものも。静岡は左右とも残るのは国の史跡レベルなのに戸塚の品濃一里塚は左右とも残っていてどうして県の史跡?(taigaa001さん)

はまれぽ調査結果!

貴重な一里塚なのは間違いないが当時のまま左右とも残っていると言えるのかは微妙。県の史跡なのは道路や一里塚の管轄の違いによるものと推測される

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ライター:中田 淳也

品濃一里塚の真実を探る(史跡指定以前)



『戸塚区郷土誌』の「南側には面影はありません」というのが具体的に何を指すのか、結論から言うとこれだと断定できるものは見つからなかった。ただ、品濃一里塚と旧東海道の歴史を調べていく中でいくつかのヒントとなる事象や史料を見つけることはできたので、それらの内容からある程度の判断をすることは可能である。

まずは現在の品濃一里塚の様子を空中写真でご覧いただこう。国土地理院ホームページより確認できるもので最も新しいものは、2007(平成19)年4月26日に撮影されたものである。縮尺は異なるが前出の戸塚区区民生活マップとほぼ同じエリアを表示した。以下、黄色い円で囲まれている範囲内に一里塚および公園がある。

 

2007(平成19)年撮影の空中写真(国土地理院ホームページより)
 

黄色い円の中の様子がどのように変化しているかという点を中心に、明治以降の品濃一里塚の歴史を見ていこう。

品濃一里塚の歴史において最初の重要な出来事は1884(明治17)年に新道(現国道1号線)が開通したことである。権太坂や品濃坂などの急坂を避けるための新道がつくられたことによって、このあたりの旧東海道は街道としての役割を失うことになる。

 

旧東海道と新道(現国道1号線)(GoogleMapより)
 

上図の青いルートが旧東海道、赤いルートが新道、黒い星印が品濃一里塚である。この新道が東海道としてその後整備されていく中で、旧東海道は基本的に“放置”されることになる。このように旧東海道のほかの地域に比べて、かなり早い段階で品濃一里塚一帯の旧東海道が国道から外れたことが、結果的に一里塚の保存という意味ではプラスに働いた。後で詳しく触れるが、史跡の指定にも大きな影響を与えたと言える。

続いてご覧いただきたいのは、1944(昭和19)年10月14日に撮影された品濃一里塚周辺の空中写真。

 

1944(昭和19)年撮影の空中写真(国土地理院ホームページより)
 

先のGoogleMapよりも表示している範囲は狭いが、右下の白い線が新道(国道1号線)である。また、左側の東海道線のルートも比較的分かりやすい。この画像からは品濃町側の一里塚には現在とほぼ同じような感じで木が植えられているものの、平戸町側の一里塚は現在の一里塚公園に該当する部分よりも南側に雑木林が伸びていることが読み取れる。もちろん推測の域を出ないのだが、この画像からこのころの平戸町側は一里塚の範囲が今ほど明確ではなかった可能性が高い。



品濃一里塚の真実を探る(史跡指定前後)



1944(昭和19)年撮影の空中写真からも分かるとおり、この地域は基本的に畑と雑木林ばかりだったが、古くから住む人の話によれば、品濃一里塚は昔(昭和20年代)から地元の小学生が学校の授業で見学に訪れるなど、地元の人々には史跡としての価値が認識されていたようだ。

畑と雑木林ばかりだったこの地域の状況が一変し、急速に開発されるのは昭和30年代に入ってからである。1963(昭和38)年6月26日撮影の空中写真をご覧いただこう。

 

1963(昭和38)年撮影の空中写真(国土地理院ホームページより)
 

この画像では東海道線は写っていない。また、右側に国道1号線が示されているが、その間のエリアが開発されているのが分かる。一里塚に関して言えば1944(昭和19)年と同様平戸町側の一里塚の雑木林が南側に伸びているが、ここからは住宅明細地図で一里塚周辺のようすを確認してもらうと違いが分かりやすい。次の画像は1963(昭和38)年発行の住宅明細地図だ。

 

1963(昭和38)年発行住宅明細地図(横浜市中央図書館所蔵)
 

直前の空中写真とほぼ同時期に発行された住宅明細地図で、これを見ると品濃一里塚の平戸町側は整地工事中のエリアに含まれている。そして、この地図に記載されている大洋不動産という会社と神奈川県が中心となってこのあたり一帯の開発を担ったと推測でき、このころに両者を中心に何らかの協議を経て1966(昭和41)年に史跡の指定がなされたのだろう。

当時の協議の内容は分からないが仮に平戸町側の一里塚の保存状態が良ければ整地工事中のエリアに含まれるとは考えにくく、江戸時代当時のままに保存されていたかという点にはやはり疑問が残る。史跡登録前後の様子については、大洋不動産に問い合わせれば分かりそうだが残念ながら現在は会社そのものがなくなってしまったため、こちらについても関係者に会うことはできなかった。

続いて、史跡登録直後に発行された住宅明細地図をご覧いただこう。

 

1967(昭和42)年発行住宅明細地図(横浜市中央図書館所蔵)
 

「品濃坂一里塚跡」と地図上に明記されている。しかし、平戸町側は「保土ヶ谷団地計画予定地」のエリアに含まれたままだ。また、このエリアは「現在山林及び荒地」とも記されている。ちなみに同じ時期(1967〈昭和42〉年5月16日撮影)の空中写真を見るとこのようになっている。

 

1967(昭和42)年撮影の空中写真(国土地理院ホームページより)
 

品濃一里塚周辺は1963(昭和38)年と大差ないが、周辺地域の整地・開発がかなり進んでいることが分かり、逆に言えば品濃一里塚の保存に関して本腰を入れていると考えることもできる。

それと正確な年代は分からなかったのだが、史料や証言を総合するとこの地域の開発が進められた1965(昭和40)年ころに、旧東海道の舗装と切り下げ工事が行われている。

これらの工事が行われる以前の旧東海道が、どのような状況だったのかは空中写真などから想像するしかないのだが、切り下げ工事が行われたことによって道路が削られ、かつてよりも東海道の高さが低くなっていることを頭に入れた上で改めて現地を訪れてみると、率直に言って「これは塚なのか?」という疑問を感じるのである。

具体的に言えばとくに平戸町側の塚が「塚としては大きすぎる」と思えてくるのだ。先程の品濃一里塚と大平一里塚の画像を下に並べてみた。撮影の角度や範囲は異なるが、塚の大きさの違いはある程度分かるだろう。

 

先程の品濃一里塚(平戸側、写真左)と大平一里塚の画像を並べる
 

国の史跡に指定された一里塚のように平地に作られた塚とは違い、多少大げさに言えば品濃一里塚は山間部にある塚なので、自然の地形をそのまま利用しているため塚というよりちょっとした崖のようにも見えてくる。そうなると江戸時代当時の地形がそのまま手つかずであるとしたらそれはそれで危険であるとも言え、最低限の整備は行われていると考えるのが自然であろう。

こうした整備によって「面影がなくなった」のか「ほぼ完全な形で残った」のか、整備の状況が分からないいま、その判断は微妙なところだというのが率直な印象だ。

ここまでくると余談に近い扱いとなるが、その後の住宅明細地図と空中写真もご覧いただこう。先程の明細地図から4年後、1971(昭和46)年に発行された住宅地図だ。

 

1971(昭和46)年発行住宅明細地図(横浜市中央図書館所蔵)を一部加工
 

まだまだ空白地帯も多いが、4年で急速に開発が進んだことがよく分かる。完全に余談ながら個人情報保護のための画像加工量も大幅に増え、それを一つひとつ手作業でやった努力も誉めていただきたい。

本題に戻って注目していただきたいのはやはり平戸町側の一里塚のあたりだろう。現在の一里塚公園に該当する区画が地図から読み取れる。平戸町側に一里塚公園ができるのはこの3年後、1974(昭和49)年のことだ。

空中写真は一里塚公園開園からさらに4年後、1978(昭和53)年1月31日撮影のものをご覧いただこう。住宅はさらに増え、西側では環状2号線の整備が始まっている。東戸塚駅の開業はこの2年後、1980(昭和55)年である。また、品濃町側の雑木林が整備され、品濃一里塚公園ができるのは少し時間がかかり、1996(平成8)年のこととなる。

 

1978(昭和53)年撮影の空中写真(国土地理院ホームページより)